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東京高等裁判所 昭和62年(ネ)920号 判決 1988年1月28日

控訴人

宮野政一

右訴訟代理人弁護士

今井敬彌

被控訴人

宮野忠平

右訴訟代理人弁護士

今成一郎

主文

一  本件控訴を棄却する。

二  控訴費用は、控訴人の負担とする。

事実

一  控訴代理人は、「1 原判決を取り消す。2 遺言者宮野乕一にかかる原判決別紙目録記載の遺言公正証書による遺言が無効であることを確認する。3 訴訟費用は、第一、第二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は、主文同旨の判決を求めた。

二  当事者双方の主張は、次のとおり付加、訂正するほかは、原判決事実摘示欄の「第二 当事者の主張」(原判決一枚目裏一〇行目冒頭から四枚目裏三行目末尾まで及び引用にかかる別紙遺言公正証書)に記載のとおりであるから、これを引用する。

(控訴人)

1  当審における新たな主張

本件公正証書遺言は、民法九六九条に定める方式に従つて作成されたとはいえないから、無効である。すなわち、

(一) 公正証書遺言の作成に立ち会つた証人については、その人違いでないことを確かめ、同法九七四条に定める欠格事由の有無を判断するため、実印と印鑑証明書が必要であると解すべきである(ただし、弁護士が証人となる場合には、職印で足りる。)ところ、本件公正証書遺言の証人安尻八郎については、その名下に何者かの代印が押され、その後に安尻なる三文判が押されているにすぎない。しかも、当初押された代印が抹消されたとの記載はどこにもなく、結局、証人安尻の名下には異なる二つの印が押されていることになり、証人安尻の同一性を担保することはできないというべきである。

(二) 公正証書遺言中の字句の訂正は、極めて厳格になされるべきであり、(1) 訂正の施された箇所の欄外には、公証人、遺言者、証人全員の訂正印が押されなければならないのに、本件公正証書遺言の二枚目裏には、証人安尻の訂正印が押されておらず、反面公証人の訂正印は二つも押されており、(2) 三枚目表の後から五行が抹消され、かつ、三枚目裏全部が不記載のため斜線が引かれているのに、右表の抹消箇所には、公証人の印が押されているだけで、遺言者及び証人二名の印は押されておらず、右裏の斜線については、誰の印も押されていないうえ、(3) 本文で削除又は加入した文字数と、欄外にその旨「〇字削除」又は「〇字加入」と記載した文字数は一致すべきであるのに、本件公正証書遺言では、この文字数が一致していないし、(4) 仮に被控訴人主張のように、証人安尻名下に、当初証人今成弁護士が誤つてその印を押し、その後これを赤鉛筆で抹消し、改めて証人安尻が押印したというのであれば、誤印の抹消も文字の抹消に準じ、欄外に「一字抹消」と記載すべきであるのに、本件公正証書遺言ではこれが記載されていないなど、字句の訂正は余りにずさんであつて、方式を欠くといわざるを得ない。

(三) 遺言者亡乕一は、自ら署名できないほどの手指の負傷はなかつたにもかかわらず、本件公正証書遺言では、公証人が「遺言者は手指負傷のため署名することができないので本公証人代わつて署名し」た旨記載して、代理署名した。仮に、真実亡乕一が手指を負傷していたとしても、それが右手であるのか、左手であるのかを明らかにすべきであり、右手を負傷していたとしても、左手で署名を求めるべきであつて、このような手を尽くさないまま安易に代理署名した本件公正証書遺言は、同条四号に違反し、無効である。

2  原審における主張の訂正

八枚目裏五行目の「祭礼」を「祭祀」と改める。

(被控訴人)

1  当審における新たな主張

本件公正証書遺言が民法九六九条に定める方式に違背し無効である旨の控訴人の主張は、すべて争う。すなわち、

(一) 民法も公証人法も、公正証書遺言の証人については、実印と印鑑証明書を要求していない。証人安尻名下に押された印については、後記(二)(4)のとおりである。

(二)(1) 本件公正証書の訂正箇所の欄外には、公証人、遺言者、証人二名の各訂正印が押されている。

(2) 控訴人の主張は、本件公正証書の謄本(乙第一号証)に関するものであつて、原本(甲第一二号証の一)に関するものではないから、失当である。

(3) 控訴人主張のような文字数の不一致はない。

(4) 証人安尻名下に押されている二個の印影のうち、一つは証人今成一郎のものであるが、これは、証人安尻の右隣の証人今成の名下に押すべきものを、同証人が過つて証人安尻の名下に押したので、この印影を赤鉛筆で抹消し、その右隣に押し直したという単純な押し誤りにすぎず、これがために、本件遺言全部が無効になるものではない。

(三) 亡乕一が手指の負傷のため、署名することができなかつたことは、被控訴人が原審において主張したとおりであり(原判決三枚目裏八行目冒頭から四枚目表末行末尾まで)、民法九六九条四号ただし書きの代理署名の要件に該当している。

2  原審における主張の訂正

原判決三枚目裏五行目冒頭から七行目末尾までを次のとおり改める。

「2 請求原因3について 冒頭記載の事実のうち、本件公正証書が作成されたことは認めるが、その余は否認する。(一)の事実のうち、亡乕一が控訴人主張の日時に八三歳で死亡したことは認めるが、その余は否認する。(二)の事実のうち、本件公正証書には、『手指負傷のため』との理由で亡乕一の署名がなされていないことは認めるが、その余は否認する。(三)の事実のうち、控訴人と亡乕一が昭和四五年以来訴訟で争つていることは認めるが、その余は否認する。」

3  同三枚目裏七行目の次に改行のうえ、「3 被控訴人の主張」を加える。

三  証拠に関する事項は、原審及び当審訴訟記録中の書証目録、証人等目録に記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

一当裁判所は、当審における証拠調べの結果を斟酌しても、控訴人の本訴請求は理由がないからこれを棄却すべきであると判断する。その理由は、次のとおり付加、訂正、削除するほかは、原判決理由説示欄(原判決四枚目裏八行目冒頭から六枚目表七行目末尾まで)に記載のとおりであるから、これを引用する。

1  四枚目裏八行目の「昭和五二年」の前に「同3の事実のうち、」を加え、九行目の「作成された事実」を「作成されたが、亡乕一が昭和五三年一月七日に八三歳で死亡したこと、本件公正証書には『手指負傷のため』との理由で遺言者本人である亡乕一の署名がされていないこと、控訴人と亡乕一とが昭和四五年以来訴訟で争つていること」と、同行目の「争いがなく、」を「争いがない。」と、それぞれ改め、同行目の「成立」から五枚目表三行目末尾までを削る。

2  五枚目表九行目の「主張し、」の次に「控訴人自身が昭和五二年一二月一一日当時つけていた日記であるとして、」を、同行目の「供述を」の前に「内容の記載された甲第五号証を提出し、かつ、原審及び当審における本人尋問の際、右主張にそう」を、それぞれ加え、一〇行目の「証人」から一二行目の「するところ、」までを削り、同行目の「甲第一号証、」の次に「第一二号証の一ないし三、原審」を加え、末行の「中村典雄の証言、」を「中村典雄、同安尻八郎の各証言、原審における被控訴人本人尋問の結果」と改める。

3  五枚目裏九行目の「記載はないこと、」の次に「亡乕一は同年一二月一七日の本件公正証書作成当時公証人に対し、財産を被控訴人に相続させること等を明確に発言していたこと、」を加える。

4  六枚目表三、四行目の「前記」から四行目の「各供述及び」までを削り、四行目の「右事実に照らせば、」の次に「亡乕一は本件公正証書作成時意思能力を有していたものと認められ、」を、四、五行目の「前記」の次に「甲第五号証の記載及び」をそれぞれ加え、五行目の「供述により」から七行目の「である。」までを「供述は、にわかに措信できず、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。」と改める。

5  六枚目表七行目の次に改行のうえ、次のとおり加える。

二本件公正証書遺言は民法九六九条に定める方式に従つて作成されたものではないから無効である旨の控訴人の当審における新たな主張について順次判断する。

1  同(一)(証人は実印を押捺し印鑑証明書を添付すべきこと等)について検討するに、公証人法二八条二項は、公証人が嘱託人(本件遺言公正証書の場合では、遺言者である亡乕一)の氏名を知らず又はこれと面識がないときは、官公署の作成した印鑑証明書を提出させるなどして、人違いでないことを証明させることを要する旨規定しているものの、公正証書遺言の証人となるべき者が押捺する印鑑については、特に実印に限り、かつ、印鑑証明書を添付すべきことを規定した法令は存在せず、しかも、明治四三年八月一〇日付け司法省民刑局長回答以来、右証人については公証人法二八条二項の規定は適用されないとの実務の取扱いが定着しており、民法九六九条の趣旨に照らし、右実務の取扱いを違法不当とすべき理由は見当たらないし、証人安尻名下の印の抹消の経緯は、後記2の第四段に説示のとおりであるから、控訴人の前記主張は採用できない。

2  同(二)(1)(本件公正証書二枚目裏の訂正箇所の欄外に証人安尻の訂正印がなく、公証人平田栄の訂正印が二個も押されていること)については、成立に争いのない甲第一二号証の一及び弁論の全趣旨によれば、本件公正証書二枚目裏の訂正箇所の欄外には、同公証人、遺言者亡乕一のほか、証人今成一郎、同安尻八郎がそれぞれ、本文部分の削除、加入を確認した趣旨の印鑑が押されていることを認めることができるのであつて、控訴人主張のような瑕疵は存在しないから、右主張は失当である。

同(二)(2)(本件公正証書三枚目表後から五行目以下の抹消及び三枚目裏の不記載の斜線と訂正印の有無)については、亡乕一名下の印影が同人の印章により顕出されたことは当事者間に争いがなく、右事実に前記二で説示の本件公正証書作成当時の亡乕一の精神状態を併せ考えることにより、右印章は、亡乕一の意思に基づいて押捺されたものと認められるから、亡乕一作成部分は真正に成立したものと認められ、その余の部分の成立に争いのない乙第一号証と前記甲第一二号証の一とを対比すれば、控訴人指摘の点はいずれも本件公正証書の謄本の方式に関するものであつて、本件公正証書の原本の方式には関係のないことが明らかであるから、控訴人の右主張も採用できない。

同(二)(3)(削除、加入した文字数と欄外に記載した文字数との異同)については、前記甲第一二号証の一によれば、本件公正証書の二枚目裏の本文部分において削除、加入された文字数は、句読点を一字と計算しないならば、それぞれ八字と五三字であることが認められるのであつて、本件公正証書の同所の欄外に記載された文字数が誤りであるというを得ないから、控訴人の右主張は失当である。

同(二)(4)(証人安尻名下の印影の抹消とその旨欄外に記載すべきこと)については、前記甲第一二号証の一の証人今成一郎、同安尻八郎各名下の印影を対比すれば、本件公正証書の証人今成一郎、同安尻八郎名下の各印影は、被控訴人主張のとおり、証人今成一郎が、自己の名下に押すべき印を過つて証人安尻八郎の名下に押し、その誤りに気づいてこれを朱線で抹消した後、自己の名下に押し直し、証人安尻が自己の名下にその印を押捺したものであることが明らかであるから、証人安尻の名下に過つて押された証人今成の印影の抹消につき、欄外にその旨の記載がないからといつて、本件公正証書は所定の方式を欠くことにはならないものと解するのが相当である。

3  同(三)(亡乕一の手指の負傷の程度と公証人による署名代理の有効性)について検討する。

前記甲第一二号証の一、原審証人安尻八郎の証言、原審における被控訴人本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合すれば、亡乕一は、昭和三九年ころ製材用の丸のこで、右手の親指と小指の各爪から先と人差し指、中指及び薬指の各第二関節付近から先を切断し、その後左手で文字を書く練習をしなかつたため、本件公正証書作成当時は、自己の氏名を署名することができなかつたこと、公証人平田栄は、証人今成一郎、同安尻八郎の立ち会いのもと、亡乕一から遺言事項の口述を受けてこれを本件公正証書の本文部分に記載したうえ、本旨外要件等として遺言者、証人の住所、氏名等を記載し、続いて『右遺言者および証人に読聞かせたところ各自筆記の正確なことを承認し左に署名押印する。』と記載したうえ、これを亡乕一及び証人らに読聞かせ、まず亡乕一に対し、遺言者として署名押印するよう促したところ、亡乕一は、自己の右手を同公証人に差し出し、署名が不可能であることを伝えたので、同公証人は、前記『左に署名押印する』との文字を削除しその脇に『遺言者は手指負傷のため署名出来ないので本公証人左に代つて署名し遺言者これに押印し、証人は各自署名押印する』と書き、亡乕一の氏名を記載し、その名下に亡乕一をして押印させ、次いで証人両名から署名押印を受けて、本件公正証書を完成させたことを認めることができ、右認定に反する原審及び当審における控訴人本人尋問の結果は措信できず、他に右認定に反する証拠はない。(なお、公証人は、自己の知見に基づき、合理的裁量の範囲内で、遺言者が自ら署名することが可能か否かを判定する権能を有しているものであつて、控訴人主張のように、亡乕一が負傷している手が右手か左手かを明確にし、もし右手で署名できなくても、左手で署名することを求め、それでも本人が署名できないときに初めて、その旨を詳細に記載のうえ、亡乕一に代わつて署名することができると、公証人が代理署名をすることができる場合を極めて狭く限定するのは相当ではなく、前記認定の事実によれば、平田公証人が亡乕一に代わつて署名したことが合理的裁量の範囲を逸脱したとは到底認められない。)

以上のとおり、本件公正証書が民法九六九条四号ただし書きに反するものでないことは明らかであり、控訴人の前記主張はすべて失当である。

三よつて、右と同旨の原判決は相当であつて、本件控訴は理由がないから、これを棄却することとし、控訴費用の負担につき、民訴法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官大西勝也 裁判官鈴木經夫 裁判官山崎宏征)

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